はじめまして。私は「どんぐり坊や」として、木と向き合い、ものづくりをしています。
今日私が伝えたいことを書きます。
**「木は木だ」**ということです。
これは、私が山に入り、街を歩き、古材を手にし、さまざまな木を見て、触って、加工して、長い時間をかけて感じた“本質”です。
🪵 すべての木には命がある
山に生えている木、街路樹として植えられた木、家を壊したときに出てくる柱や梁、家具の端材、焚き付けとして燃やされる木。
それらは見た目も、歴史も、用途も違うけれど、すべては「木」であり、命がある存在です。
でも、私たち人間はその木に「価値」をつけます。
- 高級材かどうか
- 木目が美しいかどうか
- 売れるかどうか
- 実用的かどうか
そういった人間の「評価基準」で、木に“上下”をつけてしまう。
けれど私にとっては、木は木で優劣はないという考え方です。
🧑🏭 職人たちとの出会いと、伝統の重み
私はこれまで、たくさんの職人に出会ってきました。
林業家、大工、家具職人、こけし職人、建具屋――
彼らは、木に命を吹き込み、道具を磨き、技術を受け継いでいく存在です。
彼らから学んだのは、技術だけではありません。
木に向き合う姿勢、価値を見抜く目、伝統を守る覚悟。
そのすべてが、彼らの手の中に詰まっていました。
私自身も、かつて伝統工芸士の弟子として約三年間、修行をしていました。
毎日木に向き合い、道具を研ぎ、技を磨き、細部に神経を集中させる日々。
伝統の世界の厳しさと奥深さを、体で学びました。
けれど、いくつもの出来事が重なり、その道をまっすぐ進むことはできませんでした。
迷いもあったし、悔しさもありました。
でも今は、こう思っています。
「あの時間があったからこそ、今の自分のものづくりがある」
私は、伝統を背負って生きる職人ではなく、木と遊ぶ道を選んだのです。
⚖️ 価値とは人間が勝手につけたもの
木に限らず、私たちは何にでも「価値」をつけようとします。
でも、自然界にはそんな評価はありません。
鳥も、虫も、風も、水も、「この木は高級だな」「これは安い木だな」なんて思っていない。
価値というのは人間の世界にしか存在しない幻想です。
職人たちは、その「価値」を見極め、育て、磨いていく。
それは本当にすごいことですし、必要なことでもあります。
でも私は、“価値のないもの”とされている木にも、ちゃんと目を向けたい。
🎨 「くだらない道具」を作る理由
私はよく「くだらない道具」を作ります。
意味のないもの、使えないもの、役に立たないかもしれないもの。
それでも私は作りたいと思う。
それは、「価値がない」とされている木や端材に、もう一度命を吹き込みたいからです。
役に立たなくてもいい。
人に評価されなくてもいい。
自分が「美しい」と感じたら、それでいい。
そしてもうひとつ、くだらない道具を作る理由があります。
それは、用途や使い勝手を気にしないからこそ、自由な発想で物づくりができるということ。
「こう使われるべき」「便利であるべき」といった枠に縛られず、
ただ「面白い」「楽しい」「なんだこれ」と感じる方向へ、思うままに手を動かせる。
それは、用途や使い勝手を気にしないからこそ、自由な発想で物づくりができるということ。
その自由さが、私にとって一番の喜びであり、創造の原動力です。
作品を手に取った人が、クスっと笑ってくれたり、
「なんだこれ?」と目を丸くしてくれたり、
そんな瞬間を生み出せたら、私の仕事はそれで大成功です。
🛠️ 木を通して伝えたいこと
「木は木だ」という考え方は、私にとってただの言葉ではなく、生き方そのものです。
それは、**「人間も人間だ」**という想いにも通じます。
評価されなくてもいい。
結果が出なくてもいい。
ただ、「自分が信じるもの」を毎日積み重ねていく。
職人の道をまっすぐに歩けなかった私だからこそ、できる表現がある。
そう信じて、今日も木と向き合っています。
🌱 最後に
あなたが今、手にしているその木は、どこから来たのでしょう?
どんな風に育ち、どんな風に人と関わってきたのでしょう?
「木は木だ」――それは、木の命に耳を傾けるということ。
私のものづくりは、そんな小さな対話の積み重ねです。
そしてそれは、あなたの心にもそっと問いかけるものになるかもしれません。
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